神の存在と宗教について

人生について

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本日は「神の存在と宗教について」というテーマについて書いてみましょう。  

 

神とは何ぞや?、宗教とは何ぞや?、というテーマは非常にデリケートな問題ですので、ここでは敢えて、私個人の見解という意味合いで読んで頂けましたら幸いです。

 

ですからこのブログで書かれた内容につきまして、今ある宗教批判では一切ないことを、見解の相違も当然にあるということを前提とします。そしてその見解に対しまして、私に対して「それは間違っている」などという反論は一切受け付けるつもりはありません。どうかそこはご理解の程、何卒宜しくお願いいたします。  

 

では「神とは?」、はい、私はこの宇宙に存在する大きなエネルギー体だと思っています。そこには人格も感情も一切ない、まさしく「無」のエネルギーです。そしてこのエネルギー自体は物質ではなく、いわゆる自然現象そのものであると思っています。それは数えることも見ることも出来ない、まさしく「無い状態」なのです。そしてその「無」から「有」が生み出され、今の宇宙空間の始まりに通じているのです。この地球も、もっと言えばこの太陽系そのものも、この「無」から「有」に変化した産物に過ぎません。ですから私たち人間の元をただせば「無」という言葉が適切なのです。  

 

それをあのお釈迦様が悟り、有名な般若心経に結び付いたのでしょう。

 

「色即是空・空即是色」(色すなわち無であり、無すなわち色である)の本質がここにあるのです。私は仏教徒ではありませんが、この「色即是空・空即是色」の意味を見出した時に個同士の争いごとの空しさを悟りました。そう全ての元は同じ無であり、それが有として個が生まれたことにより起こる、様々な現象に、私たち人間は愛し、憎しみ、妬みという感情を作り出したのです。愛することも憎しみ合うことも、妬み合うことも、元を正せばこの共通の「無」から生まれているものであり、それはそれが相手に向けられていても間違いなく自分に返ってくる、自然の現象に繋がっているのです。  

 

繰り返しますが、神とは「無」のエネルギーであり、そこから発生した「有」の世界に暮らす私たち人間もみんなが同じ「無」から生じた、元を正せば一つのものだということです。つまり私もアナタも一つの同じ無のエネルギーなのです。○○人も○○人も同じ兄弟と言えば分かりやすいでしょうか。もっと言えば相手を傷つければ、その行為は自分を傷つけていることに通じ、そう考えますと、いかに権力争いや、利権争いは意味のない行為だということが理解出来るはずです。それは人間でいうところの「無意識」にも通じているといえます。  

 

そう、この無意識(潜在意識)というエネルギーは実態がなく、でもそこにある・・という正に「無」のエネルギーそのものではないでしょうか?、そしてこの「無意識」から「意識」という個が生み出され、人間はいろいろな性格性質を持ち、この社会で共存しているのです。でもこの無意識よりも意識に重きを置きすぎるために、他人と比較しては僻んだり、妬んだり、憧れたりと常に外側の現象としてしか、捉えられなくなってきているのでしょう。

 

この無意識は一つなんです。相手の無意識と原点は同じなのです。つまりたまたま個として別々の存在でありながら、その実態は一つなんだということ、そう本当にシンプルなのです。  

 

そして宗教とは、この「無」のエネルギーに人格化させたものを崇拝することから始まったものです。この世界には様々な宗教があり、自分たちの神こそ本物だと戦争にまで発展しています。まさに本当に愚かな行為であって、元の元を言えばみんな同じ「無」のエネルギーに向かって祈っていることを知らなければいけません。そこが理解出来れば、この世から宗教戦争というものは無くなります。個としての神は存在せず、ただ「無」のエネルギーから発生した「有」の現象に過ぎないことを悟るべきです。

 

であればキリストもブッタもモーゼも、この「無」のエネルギに気づいた賢者であり、それそのものが神ではないことは誰の目から見ても明白なのです。  

 

ただこうした宗教も、相手を理解して行なう行事としては全く問題ではありません。人間とは弱いものですから、こうした賢者や架空の存在を神として敬い、そしてすがることも当然だと思います。日本でいう「お伊勢参り」で有名な天照大神もそうです。こうした偶像を作り出し、そしてそれに敬意を表して祭ることは、ごくごく自然の行為です。人間とは救世主的なものが大好きなのです。

 

こうした「神」が、人間同士の愛を深めるためのものであれば素晴らしいことですし、この偶像化された「神」にすがることで、生きる力を与えられるというものであれば、それはそれで存在価値はあるのでしょう。人間が求めたからこそ宗教というものが存在するのですから、そこは理解し合う必要があるのではないでしょうか。  

 

元々人間の祖先は、天変地異の自然の恐怖を「神」と拝んでいました。自然こそ神であり、その自然を怒らせないための儀式というものが宗教の始まりです。そこからいろいろな新興宗教が生まれ、現在に至っています。

 

どうか本日の私の宗教感を知って頂き、どこの宗教だから・・・とかという差別は止めるべきです。どんな宗教だろうがそこにはそれなりの真理があるのです。まあオウム真理教は別としまして、どんな宗教も良いところも悪いところもあります。そこをキチンと見極めることが出来るのであれば、宗教は心の支えとして、十分社会上の意義があります。私は無宗教ですが、そうした宗教に入信している方々の気持ちは理解しているつもりです。  

 

さて「神の存在と宗教について」について書いてきました。

 

何度も繰り返しますがこれは私の主観であり、この意見を押し付けるつもりは一切ありません。神については人それぞれの見解があり、また宗教においても好き嫌いがあるでしょう。

 

私はそれでいいのだと思っています。ただこの宗教というものを、もっとこの人間社会でより良き方向性に導くことが出来ましたら、それは最高の教えになるのではないでしょうか。

 

神という名の元に、人類が平和で愛情溢れる生活が可能であるのであれば、それは必要なものであり、人間だけに許された思考の自由だと思います。

 

どうか今回のこの「神の存在と宗教について」を読まれて、生きるに際しての力の源にされて頂けましたら、こんなに嬉しいことはありません。

 

 

 感謝

 

下村しげお  

 

 

 

 

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