はじめまして、
日本初レベルのメンターコーチ 下村しげおといいます。
1、生い立ち
私は、1962年8月30日に東京深川で生まれました。
今年55歳になる熱い親父です。
私が生まれた家は、今でいう長屋みたいなもので一軒家に5家族ほど住んでいたと思います。
当然に共同トイレでお風呂もなく、本当にみんながみんな貧乏暮らし、でもそれを不幸だと思ったことは一切ありません。
本当に優しく厳しい素晴らしい両親のもとで、スクスク育った記憶があります。
2、家族を思う
私が今のような性格を持てたのは、まさしくこの両親のおかげと言っても過言ではないでしょう。
とにかく頑張り屋の父親と、それを献身的に支える母親は、私にとってはかけがえのない存在です。
もう既に父親は亡くなりましたが、きっと父親もこうして、私が世のため人のために活動していることを喜んでいることと思いますし、もちろん母親も私がこうして頑張っていることを、心から見守って下さっています。
現在は良き妻と可愛い娘が二人、本当に家族というものは大切だとつくづく感じます。特に娘たちには、この奇跡的な生命を謳歌してほしいと願ってやみません。
私の両親もこうして私を見ていたのかと思いますと感無量になります。
子供というものは私の分身そのものです。
そんな子供たちにも、私と同じようにどんなに小さなことでもいいですから、人様のためにお役に立てる人間になって頂けましたら、こんなに嬉しいことありません。
元気で、笑って、そしていろいろな方々から愛される人になってくれればそれ以上のものはありません。
親というものはみんな同じなんでしょうね。
3、生きてるだけで丸儲け
私は現在、人材育成の一環としてペイフォワード事業というものを行っており、多くの若者と話す機会が多々ありますが、常に自分の息子、娘のように接しています。
他人様のお子様の人生に携わる以上、私も生半端な気持ちではいけません。
時には優しく、または厳しくそれはそれは真剣勝負です。
そのぐらいな気持ちでなければ親御様に失礼になります。
若者というものはこの世界の宝物です。
本当に「生まれてきて良かった」と言っていただけるように、「人生とは素晴らしい」と言っていただけるように、まさしく私の家族と同じです。
私がこのペイフォワード事業を行なう経緯には、もちろん様々は要因がありますが、こうして私とご縁があった若者たちが笑顔になって下さった時が、私の最高の喜びであり、私の人生最後の奉公だと思っています。
さて、そんな私がどんな人生を生きてきたのか?
どんな紆余曲折な人生を歩んできたのか?
少し振り返って見ていきましょう。
4、小学生時代
物心ついた私の小学生時代は、本当に目立った子供でした。とにかくやることなすことが、全て上手く回っていきました。
勉強もスポーツも優秀で、特にスポーツでは運動会で記録を打ち立てたり、体育の時間でも率先して活動していました。
また少年野球チームでもレギュラーで活躍していました。
今の私が自分自身に自信を持ったのは、きっとこの小学生時代があったからだと思っております。
それは小学5年、6年時の女性の担任先生が自分の子供が生まれた時に、私のような子供になるようにと、私の名前を付けたことにもその凄さを物語っているでしょう。
もちろんそんな目立った子供でしたから「イジメ」にも遭ったことがあります。今から思えばやっかみだったんでしょう。
でも平気で元気に学校に行っていました。
そんな時に「俺は絶対に有名になる!」なんて果てしない夢を描いていたものです。
でもそんな私も最初の挫折を味わいました。
5、第一の挫折
中学校受験です。
スポーツ同様に成績も良かったものですから、自然と受験というコースに進んでいきました。
父親が「子供には学歴を・・」という思いが強くあったせいもあり、早稲田中学校を受験しました。
結果は・・はい、落ちました。
泣きましたね、あの悔しさは今でも覚えています。
私にとっては最初の挫折でした。
そこで地元の中学校はレベルが低いということで、勉強熱心だと言われていた中学校に越境入学をすることになったのです。
ここで第二の挫折を味わうことも知らずにです。
6、第二の挫折
その第二の挫折とは・・はい、友達が出来ずに一人ぼっちになったことです。
周りの学生は当然に地元の小学校から上がってきた子供ですから、みんなが友達です。
そんな中にポツンと一人入った私は、話す友達一人もいないのです。
これは辛かったですね。
泣きながら両親に「地元の中学校に戻りたい」と困らせたことを覚えています。
友達の大切さを、友達がいるという当たり前のことを、本気で考えたことはありませんでした。
だからこそ今でも友達や、知り合う方々を大切にする性格になったんだと思います。
こうして見ていきますと、本当に人生というのは、無駄なことなんて何一つ無いんだな と、感じずにはいられません。
まあ、そんな私も何とか友達も出来、「よし、やったるか!」という自信に満ち溢れていました。
しかしそれがまた第三の挫折を味わうことになります。
7、第三の挫折
そう、世間には上には上があるものだということです。
つまり勉強はもちろん、得意だったスポーツも全く目立たない子供に成り下がってしまったのです。
常にトップクラスだった成績も中ぐらい、走っても中ぐらい、野球も中ぐらい・・情けないやら悔しいやら、まるで歯が立ちません。
今までは何をやるにもリーダシップを取っていた私が、リーダシップを取る友達に付いていくという身分になったのです。
ここでさすがの私も「自信」という柱が崩れ去っていくのが分かりました。
8、人生の転機
こうして三つの挫折を13歳までに味わい「普通の子」に成り下がり、「自信のない子」になっていった私ですから、当然にこの先の人生は平々凡々なものになるかと思われました。
しかしここで神様は思いもがけないチャンスを下さいました。
それが中学一年生の遠足の時のことです。遠足でのバスの中で、バスガイドさんが使うマイクで順番に歌を唄うことになりました。
もちろんカラオケなんてものはありませんからエコー無しのアカペラです。そこで私の番になり、私は当時姉が好きだった「森田健作(古いですね😰)さん」の歌を唄い出しました。
その時に何が起こったのか?
はい、私が唄い出した途端、周りがシーンとなり、その後にザワつきが起こりました。
「誰が唄ってるの?」
「凄く上手いね」
という声が聴こえてきます。
そうです、それまで自分は歌が上手いなんて気づきもしていなかったのですが、この時から「俺は歌が上手いんだ」という自信がフツフツと再びに湧いてきたのです。
当時スポーツ万能でイケメン人気ナンバーワンの友達が、一番歌が上手いという評判を、その一日で一気に覆してしまったのですから大変な騒ぎですね。
それから私は父親に頼んで、2万円のフォークギターを買ってもらいました。
同じようにギターを持っていた親友と毎日のように練習し、演奏は下手くそながらも、繰り返し繰り返し一緒に唄っていたものです。
9、バンドで世界へ羽ばたくはずが・・
当時はフォークソングブームで、「アリス」や「かぐや姫」などのコードを覚えては、カセットテープに録音したり、他の友達を呼んではミニミニコンサートを開いたりしていました。
こうなりますと、もう気持ちはプロ・デビューそのものです。
バンドとして成功すること以外、私の人生はあり得ません。
そんな中で作詞作曲も手がけるようになり、目標を見つけた喜びにまるでイノシシのように突き進んでいったものでした。
この行動は高校に入っても変わりませんでした。
中学時代とは違い、メチャクチャ演奏の上手な連中とバンドを組んでは、文化祭で活躍していきました。
また文化祭では飽き足らずに、「ぴあ」という雑誌からコンテストに出演したり、ディスコや遊園地でも演奏するようになっていきます。
レコード会社にカセットテープを持ち込んだり、コンテストからプロへの道も開かれるようになっていきます・・
が、でも所詮は素人です。自分自身の才能に行き詰まりを感じるようになってきました。
ですから大学生にもなりますと、だんだんと怠け癖が付いてしまい、怠惰な生活をするようになっていったのです。
私にとってこの大学生時代は、本当に情けないほど無駄な時間を過ごしていきます。
今、もし過去に戻れるとしたら、もう一度大学生時代からやり直したいですね。
それほど後悔しています。
私が「今という時間」を人一倍大切にするのは、このような怠惰な生活で、時間を無駄に過ごした経験があったからかも知れません。
結局バンド活動もフェイドアウトしてしまい、カラオケで、ただ「歌の上手い人」に成り下がっていきます。
ただ何故か「根拠のない自信」だけは持っていて、就職活動をする際も何の知識も無いまま生意気にも「大きな会社の歯車ではなく、小さな会社で自分の力を試したい」・・などとほざいては、どん底の社会人人生を歩み出すことになるのです。
10、怠惰な社会人へ
結局は、そんな浅はかな気持ちで入社した会社は一年で退職、それからアルバイト生活を一年ほどして再就職をするものの、そんな会社も三年で辞めて、一番やりたくなかった父親の家業を継ぐことに・・そして私が結婚して、子供が産まれた時に父親の家業が倒産。それからの私は転々と仕事を変えては、まるで彷徨う浮浪者のような人生を味わうのです。
今、履歴書を書いたとしたら、職歴だけで10枚近くは必要でしょうね(笑)、そんな情けない社会人時代を過ごすのです。
まるでやることなすこと全てが上手くいかずに、自暴自棄にもなりながらも、家族がいましたから、そこは何とかしなければと必死にもがいていた時代でした。
私が今現在、メンターとして苦しむ若者の気持ちが痛いほど分かるのも、私自身このようなやるせない経験をしたからだと思っております。
そう、ここでもこの怠惰な経験が無駄では無かったとよく思い出します。
そんな中、またまた人生を追い込む事件が私に襲いかかります。
11、天国そしてどん底へ
何気なくインターネットで見つけたMLMに参加して、あれよあれよという間に直紹介日本ナンバーワンになるのです。
月々に数百万円ものお金が振り込まれ、私は有頂天になっていきます。
まるでお金に振り回されるように、豪遊はもちろん、そのMLMの主催者から勧められた運用にも手を出します。
気がついてみたら振り込んだお金が2000万円にもなっていました。そしてよくある転落人生のようにその主催者が雲隠れで、一夜のうちに無一文になっていったのです。
まさに天国と地獄を一瞬の間に見せられたかのように、私の人生はどん底にへと落ちていきました。
それから無一文となった私は、母親一人(父親は亡くなっていました)の小さな実家に家族と一緒に潜り込んだはいいものの、私に襲いかかったのが嫁姑問題です。
あれほど優しかった母親が鬼の形相になり、妻は病気に、子供は狂い・・これが本当の地獄かと!、叫んでいました。
この時です。自殺を考えてマンションの最上階に行っては一時間以上も下を覗き込んでいました。
今の私が命の尊さを熱く説くのも、このような経験があるからです。人生は必ず終わりがあります。
でもそれを自らの手で終わらせてはいけないのです。今から思えば、今現在進めている「世のため人のため事業(ペイフォワード事業)」をするために、私は様々な経験をさせて頂いたと思います。
私の好きな言葉に「神様はあなたにプレゼントする時に、それを問題の中に包み込む」というものがあります。
まさしく神様は私に最高の「経験」というプレゼントをして下さっていたのです。
そんな経験があるからこそ、私は悩める方々に本音で語りかけられるのです。
「お金」に関しても、それに狂うことの無いように本気で導き説けるのです。
もし私の言葉にパワーがあるとしましたら、それは今までの地獄のような経験から来る、まるで神様が用意した「問題」を乗り越えた「半端ない自信」によるものでしょう。
それは絶対なる原則なのです。
さて、少し話しがズレましたが、この時期に私は劇的な出会いをします。
12、メンターとの出会い
それが今のメンターとの出会いです。慣れないSNSで、とにかく今の地獄の人生を変えようと、必死に「出会い」を求めていた時に、そのメンターとの出会いはありました。
もちろん成功もどきの甘い話しはたくさんありましたが、そのメンターは違いました。
「簡単に成功は出来ない」「甘い話しなんて無い」「成功は約束出来ない」・・
そんな厳しさに、私は本物の成功者の姿を見たのです。後から分かったことですが、そのメンターは元ヒルズ族のIT長者でした。
私は知らぬ間にその方に「弟子入り」を嘆願していました。
もちろん答えはNOです。
でも生きるか死ぬかの私にとって、この必然のチャンスを逃すわけにはいきません。
一ヶ月嘆願し続けました。根負けしたのか、そんな私に何かを見たのか、ようやく弟子入りを許されたのです。
もちろん、そこからトントン拍子に人生が好転したわけではありません。
それはそれは厳しい「貧乏思考」を「成功思考」に変える訓練が六年も続きます。
何度も何度も挫けそうにもなりました。
ボロボロになりながらも、傷だらけになりながらも、しかし私はメンターを信じて付いて行ったのです。
まず普通の方であれば諦めていたことでしょう。
でも私には後が無かったんです。
どんなに泣いたでしょう、どんなに憎もうと思ったでしょう。
でも決して「諦める」という言葉だけは吐きませんでした。
やはりこの根性も、開き直りにも見える往生際の悪さも、全てが今までの地獄を見てきたおかげだと思います。
そこから私の人生は大きく変わっていくことになります。
そこで私はメンターとある約束をしたのです。
それが「この成幸を次の世代に繋げていくこと、そうペイフォワード事業を行うこと」です。
簡単に成功を語る輩が多い中で、私がうるさいほど「成功思考の大切さ」を説くのも、メンターとの約束があるからです。
13、ペイフォワード行動へ
今、この長い文章を読まれている若者にこれだけは伝えたいと思います。
「人間は成れないものなどないのです。その足を止めなければ、諦めずに覚悟を決めて進んでいけば、間違いなくそれは得られるのです」
そしてもう一つ「この世界に無駄な命など一つたりともありません。どんな境遇もどんな困難も、それを乗り越えられる方にしか訪れないチャンスだということ」をです。
人生はいろいろです。
しかし「生きる」とは、そんな中で如何に自分自身を成長させるか?
そしてそれをどう次の世代に繋げていくか?
ではないでしょうか?
14、まとめ
私は様々な地獄や、どん底の人生の中から、多くの幸せを学びました。
そして今ではメンターとして弟子を持ちながら、これからの世界や日本のためにたくさんの「笑顔」を作っていきたいと思っております。
多くの成幸者育成こそがその土台作りになると信じて、このメッセージも書いております。
どうか「生きることに誇り」を持って下さい。
どうか「奇跡的な生命に感謝」して下さい。
このメッセージを読まれて皆様の人生がより良くなることを、
どうか祈ってやみません。
長い文章を読んで頂き本当に有難うございました。
さあ、始めましょう!
感謝
下村しげお