先日、昔の友人と久しぶりに一杯行ったところ、何と友人のお母様が自殺未遂をしたとのこと。大ごとにはならなかったようですが、余りのショックに言葉を失いました。
そのお母様は83歳、正に人生の最後を謳歌して頂きたい年齢にも関わらずに自ら死を選ぶとは、こんなに悲しいことはありませんし、とても辛い出来事だと思います。
2016年の自殺者は2万5千万人で、そのうち65歳の高齢者は4割を占めているそうです。今まで頑張ってきて、余生を過ごして頂くはずの高齢者の実態がこの数字に表れているのです。
この日本では多少は少なくなったものの、その自殺者は世界でも8位ぐらいの位置におり、この平和な日本の裏側では、多くの方々がいろいろな事情で悩み苦しみ死を選択しています。
実はこのブログを書いている私も、自殺未遂経験者なんです。もうかなり昔になりますが、事業に失敗して経済的破綻による家族の崩壊がその原因でした。だから分かるんです。
今から思えば本当にバカなことをしたな・・と思いますが、その時はもう「死」でこの厳しい現実から逃れたいというマイナス思考一心で、正常な思考が出来なくなっていました。
このブログを読まれている方の中にも、もしかしたらこの「死」という選択を自らしようと、あるいは今の寂しさ、苦しみから逃れたいと、もがいている方々がいるかも知れません。
では今回は一緒にこの「自殺」について考えて、その行為の愚かさを知って頂きたいと思います。私も自殺未遂経験者として「自殺してはいけない理由」を一緒に考えてみましょう。
1、何故、人間は自殺をするのか?
人間が自殺を選択する理由の多くが、今ある苦痛から逃れたいためです。自殺すれば全ての苦痛から逃れて楽になれるという自分本位の妄想からです。そしてその自由を保有しています。
様々なご意見があるかと思いますが、生物の中で自分の命を捨てる自由を得ているのは人間だけです。自殺出来る自由を保有しているからこそ、自殺という選択肢を行使出来るんです。
どんな生物も生きることを優先しながらも、死する運命に従ってその肉体を次の別の生物の生命への転換を認めている、それが自然界でありこの自然界の摂理を逸脱したのが人間と言えるのではないでしょうか。
つまりは、まだ生きられるのに死を選択する現状を絶つことはありません。何故なら人間が自殺する要因は単純に自殺出来る自由の行使を誰もが持っているからです。これは綺麗事抜きに存在している事実です。
その自殺する自由を行使する理由としては、人それぞれです。病気であったり、経済的理由であったり、孤独感であったりします。その苦しみから逃れる道の一つが自殺なのだと思います。
このような苦難に苦しむ方々に軽はずみな綺麗事は通用しません。自殺してはいけないことは当然に知った上で、最悪の選択をせざるを得ない切羽詰まった状態だからです。
ただ自殺する自由とはある意味、責任が伴うものであり、その行使には自分だけではなく相当な痛みを伴うことだけは間違いありません。
もし人間にこの自殺出来る自由が無ければ、つまりそのような思考回路が脳に無ければ自殺は無くなります、が、これは幸か不幸かそれを一つの人間の進化だと思えば納得せざるを得ないのです。
ですから何故人は自殺をするのか?、という問いの答えは「自殺という行為を選択出来る自由」を保有しているからであり、どんな綺麗事を言ってもそれが歯止めになることはありません。
ただ「自殺出来る自由」の反対に、今ある苦難や苦痛を乗り越える自由があることだけは決して忘れてはいけません。そう「生きる自由」です。臨終のその日まで「生きる自由」なんです。
何故人は自殺をするのか?、という答えは意外とこんなシンプルなところにあるのかも知れません、が、繰り返しますが「生きる自由」「生きる価値」が勝れば「自殺する自由」という選択はしないはずです。
2、自殺する罪と罰とは?
よく「自殺してもあの世で今よりももっと苦しいことが待っている」という言葉を聴きます。また「来世にもっと厳しい人生が訪れる」という罰にも似た言葉も聴いたことがあるはずです。
これは「あの世がある」「来世がある」という定義の上で、自殺に対する抑止力として利用される言葉です。この世は仮の世界で、この世とあの世を分離して捉える考え方です。
このことに私は否定はしません。ただ現実的にそれを科学的に立証されたことはなく、あくまでも人間が作り出した空想の世界であって、この罰を当事者に理解させることは難しいでしょう。
では残された家族や友人に対する「悲しみという罪」はどうでしょう?、自殺者にも当然に家族がおり、関わった方々がいます。そんな方々に対して辛い思いを残す罪は否定出来ません。
また、奇跡的に生まれてきた、このかけがえのない生命に対する放棄という罪はどうでしょう。課せられた生命の放棄に対する罰はどこかで清算されるべきです。自殺で楽になる反動の存在です。
この万物の世界はあらゆるものが陰陽の法則で成り立っています。プラスがあればマイナスがあり、光があれば必ずに陰があります。捨てるものがあれば課せられるものが必ずあります。
つまり自殺という行為がその方の善であれば、間違いなくその反面である悪があります。それこそが自殺という自由に対する罪であり罰であり、これは自殺者が引き受けなければいけない現実です。
では、どのような罰や罪なのかは私自身も明確ではありませんが、陰陽の世界に基けば間違いなく自然の摂理に反する行為、そう生きられる生命を自ら捨て去るゆえの罰と罪は間違いなくあります。
3、自殺したいほどの苦難は変化の時
まず私の私感ですが、この時代は生きるのにとても厳しい時代だと思うんです。何でも便利になった反面、人間同士の触れ合いが気薄になって、共感し合うという温かみがありません。
またとかく「お金」に重視しては、自分がどのぐらい稼いでいるのか?、という価値観・比較感が蔓延って「稼ぐ」という意味を履き違えている方々が多いと思うのは私だけでしょうか?
今の若者が憧れる現代版「成功者」という言葉自体、その目的、目標を「お金」にすり替えさせるに値する要因でした。真面目に汗水垂らして働くという日本人の美学である行為を覆しました。
しかし、こんな刹那ない時代だからこそ、自殺を考えるまで苦しんだ経験こそ、次の自殺願望者の方々の歯止めに活かされるべきではないかと私は思っているんです。
「生きるとはバトンリレーみたいなもの」という言葉をこのブログで何度か書いていますが、まさしく生きるとは、成長することであり経験することであり、学んでいくことです。
そんな経験からくる成熟した価値観という財産を、次の世代にバトンタッチしていくことこそ人類のサイクルであり、生まれそして死んでいくという人類の脱皮のような宿命の原点ではないかと思うのです。
だからこそ「死ぬほどの苦しみを乗り越えるチャンスを放棄して、何も繋げずに勝手に死んではいけない」と言えるのです。そう、自殺するほどの苦しみこそ、その方の生きる意味でもあるのです。
良いことも悪いことも含めて、自分に訪れる物事の全ての結果は、自分自身が引き寄せた原因から起こっています。であればそれを引き受けては、それを乗り越えて笑って次の世代に残さなければいけません。
これだけは先人の死の上に生まれし私たち人間としての約束、義務ではないでしょうか?、死ぬほどの苦しみは決してあなた一人だけに訪れるものではなく、多くの方々に襲いかかります。
それを、どう受け止めるのかはとても重要なことです。弱肉強食の世界において弱いものが淘汰されるのは、死によって次の生命を育み繋げるものであって、そこに自己完結は無いのです。
ですから自殺ほど自分勝手な行為はなく、あなたのバトンを待っている方々にこんなに失礼なことはありません。次の生命の維持のためにもそこは自然の摂理に従うべきだと思います。
4、だから自殺してはいけない
人間は一人では決して生きてはいけません。いろいろな出会いがあって、いろいろな触れ合いがあって、喜怒哀楽を共有しながら初めて人間として人生を謳歌出来ると思うんです。
苦しいなら「苦しいよ!」と叫んじゃいましょうよ。寂しいなら「寂しいよ!」と頼っちゃいましょうよ。人間はお互いに手を取り合って生きるからこそ自己を確立出来るんです。
じゃなきゃ、人生なんて生きるに値しないものになってしまいます。成長出来るのも、いろいろな方々からの学びがあるからであって、人との関係性が無ければ何の意味もありません。
前述した私の友人のお母様も、息子である友人にもっと甘えちゃえば良かったんです。ここまで育てた息子に堂々と助けを求めるべきだったんです。それが親子じゃないですか?
今では、その友人は母親のためにその殆どの時間を使っては、会話をしたり、家事を手伝ったりしながら、生きる勇気を惜しみなく与え続けています。
だからこそ・・・
勝手に死んではいけないんです。
どんな理由があっても、自殺してはいけないんです。
どんなに苦しくても、どんなに寂しくても、どんなに経済的に切羽詰まっても、そこから抜け出す道をみんなで探しましょうよ。それが家族であり仲間であり人間同士の繋がりなんです。
自殺出来る自由なんて勝手に行使するものはなく、自殺してはいけない責任を行使するために存在する、自然の摂理が生んだ「踏み絵」みたいなものだと思いましょう。
人間生きている限り、どんな環境も変えることが出来るんです。自分が変えようと思えば、いろいろなサポートが得られるものなんです。そうあなたは一人ぼっちでは無いんです。
試しに誰かに「死にたい」って言ってみて下さい。「そうだね、自殺した方がいいね」という人は誰一人いないでしょう。何故ならあなたに死んでほしくはないからに他ありません。
苦しみも悲しみも寂しさも、あなたが作り出す蜃気楼なようなものです。そのような苦難を苦難と捉えるか、逆にチャンスと捉えるかは本当に人それぞれ違うんです。本当なんです。
全ての出来事には意味があり、人間が乗り越えられない困難なんてありません。苦難の中にこそあるチャンスに、寂しさの中だけにある気づきにどうかフォーカスしてみて下さい。
過去に癌を患った方が癌患者家族のために講演をしている方もいます。一度破産した方が経済的な支援をしていることもあります。寂しさの中から素晴らしい詩を与える人を私は知っています。
経験に勝る価値はありません。自殺するほどのその悲し涙を笑い涙にしましょうよ。それが出来るためにも手を繋ぎましょう。その頑なに握ったこぶしをどうか開いてみて下さい。
あなたのその手の先に、あなたの手を迎える暖かい手が差し伸べられているんです。どうかその手を掴んで下さい。そして暖かみに生きる自由という権利を正々堂々と主張して下さい。
自殺出来る自由とは、苦難からの逃げ道ではなく、あっても行使しない覚悟を示すためにあるものだと思うんです。人はいつか訪れる死ぬその日まで必死に生きるために生まれて来たのです。
そう、自殺出来る自由とはパンドラの箱です。
パンドラの箱は開けてはいけないものなのです。
誰一人、無駄な生命などはありません。あなたの生命があるからこそこの世界があるんです。どんな大きな建物も柱一つ欠ければ、それはもう完全なるものでは無くなります。
そう、あなたがいるからこそ、それがどんなあなたであろうと、あなたがいるからこそ、この世界は動いているんです。誰一人欠けてはいけないのです。
だからどうか・・・・
周りをどうか見回してみて下さい、ほら、そこにあなたを迎え入れる手が見えることでしょう。
感謝
下村しげお